神々の遊びとしての人類――戦争と絶滅の果てに見えるもの

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神々の遊び説

人類の歴史を俯瞰して見ると、それは誕生と繁栄、そして争いと破滅の連続であったことが明らかになる。人類という種が持つ知性と創造性は驚くべき進化を遂げ、文明を築き、科学を発展させ、地球のあらゆる領域にその影響を及ぼしてきた。しかし同時に、人類は自らの手で互いを傷つけ合い、殺し合い、文明を何度も破壊してきた。核兵器の発明以降、その破壊のスケールはもはや地球全体を覆うほどに膨れ上がり、いまや「絶滅」という言葉が現実味を帯びる時代に我々は生きている。

過去においても、「人類は一度滅びたのではないか」という仮説はさまざまな分野で語られてきた。古代文明の痕跡、たとえばアトランティスの伝説や、インダス文明の急激な消滅、マヤ文明の衰退など、いずれも「高度な文明が何らかの理由で崩壊した」という共通点を持つ。これらが本当に「一度栄えた人類の別の形」だったのかどうかはともかく、人類が栄えては自壊するというパターンは、まるで繰り返されるプログラムのようにも見える。

このように「絶滅」と「繁栄」を繰り返す種としての人類を観察する視点を広げてみると、ある種のメタ的な問いにたどり着くことになる。すなわち、「我々はなぜ滅びずに、今日まで生かされてきたのか?」という疑問だ。技術的にはとっくに自滅していてもおかしくない。冷戦期の核戦争の危機、現在におけるAIやバイオテクノロジーの暴走リスク、気候変動による環境崩壊――いずれも「滅び」のきっかけとなりうるものであったし、今もなお進行中である。

だが、それでも人類はまだ「完全な終焉」に至っていない。では、この奇妙な「持続」は何を意味するのか。ひょっとすると、我々の存在そのものが、まるでゲームのような、何者かの手によって設計されたシナリオの中にあるのではないか。たとえば、1980年代に人気を博したゲーム『ポピュラス』のように、神々が人間という種を管理し、ときに育て、ときに滅ぼす――そんな構造の一部なのではないか、という思考に行き着く。

この「神々の遊び」説は決して新しいものではない。古代ギリシャにおいては、神々が人間の運命を操る存在として数多く描かれてきた。ゼウスが気まぐれに英雄の運命を変え、アテナが一国の興亡に関与する――そうした神話の数々は、当時の人々の世界認識の中に「人間の意志を超えた何か」の存在があったことを示している。

現代においても、宗教的な観点からはもちろん、哲学的・SF的な視点からも同様の仮説が立てられている。たとえば、「シミュレーション仮説」――我々が今感じている現実は、実はより高次の存在によって作られた仮想世界である、という説だ。この仮説に従えば、人類の戦争や破滅、絶滅というイベントもまた、上位存在によるシナリオの一部であり、たとえば「この種が自滅するまでにどこまで進化できるのか」という観察実験に過ぎないのかもしれない。

このような視点で見ると、我々の行動――とくに「戦争」という人類特有の自己破壊行動は、非常に興味深いものに映る。なぜ我々は、理性と知性を持ちながら、争いを避けられないのか。資源の奪い合い、宗教や思想の違い、国家という単位の対立。個人レベルでは平和を望みながら、集団になると攻撃的になり、国家となると破滅的なまでに戦争を推進してしまう。この矛盾こそが、人類の「プログラム」のように思えてならない。

そして仮に、神々あるいは上位存在が人類を「ゲームの駒」として見ているとするならば、我々の戦争や絶滅は、単なるエンターテイメント、あるいは知的好奇心の対象でしかないのかもしれない。「今回は核戦争で終わるだろうか?」「AIによる支配で滅びるのか?」「人類は宇宙に進出できるのか?」――こうした問いを前に、神々が盤面の一手を眺めている。そう考えると、人類の文明もまた、トライ&エラーの試作品に過ぎない可能性がある。

とはいえ、この考え方は決して「無力さ」を意味するものではない。むしろ、人類が自らの存在を問い、行動を見直す契機となるかもしれない。我々が「神々の遊び」にすぎないのであれば、なおさら、自分たちの意志でその運命に抗うこともまた、意味ある行動なのではないか。破滅を繰り返す運命から脱却することができたとき、はじめて「観察対象」ではなく、「創造者」に近づくことができるのかもしれない。

結局のところ、人類がなぜ滅びずに存在しているのか――その答えは誰にもわからない。だが、我々が今こうして思考し、選択し、行動しているという事実自体が、仮にどれだけ小さなものであっても、宇宙の中で確かに輝いている。その光が、いつか真の意味で「神々の遊び」から解放される日が来ることを願ってやまない。

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