この世は投影か?

私たちが「今」生きていると感じているこの世界。この世界は、自分の意志によって選択され、行動が起き、未来がつくられているように見える。しかし、最新の神経科学や情報理論、そして仏教や古代哲学の教えを突き合わせると、この「選択している自分」という感覚が、実はひとつの“投影”でしかない可能性が浮かび上がる。
スマートフォンに触れる、立ち上がる、言葉を発する──これらの行動が、自分自身の判断で行われているという感覚。それは非常にリアルで、疑いようもない。しかし、それらの行動はすでに数秒前、いや、もしかするともっと以前に、“この世のサーバーのような存在”によって決定されていたとしたらどうだろうか。
自由意志は幻想か?──リベット実験の示した真実
神経科学者ベンジャミン・リベットの実験では、被験者が「今ボタンを押そう」と意識するよりも早く、脳内ではすでにその動作の準備が始まっていることが示された。つまり、自分が何かをしようと思ったときには、すでに脳はその準備を完了していたというのだ。
この結果は、人間の自由意志が「結果」ではなく「錯覚」である可能性を示唆している。私たちは“自分の意志で選んでいる”と信じているが、実際には何かが先に決め、それを私たちが後から追認しているだけではないのか? そしてここで新たな問いが浮かぶ──「では、その決定を行っている“何か”とは何か?」
“脳”ではなく、“サーバー”が決めている?
この決定主体を、単なる脳の無意識ではなく、“この世界の情報的基盤”と捉えることができる。ちょうど、インターネットに接続された端末が個別に動いているように見えても、実際は中央のサーバーで情報処理がなされているように、私たち一人ひとりの意識や行動も、背後の“情報サーバー”のような存在に依存しているのではないか。
この“サーバー”は、個人の脳の外部にあり、時間・空間・因果を超えた次元で情報を保持し、配信している。人はそのデータを受け取り、脳を通して「自分の意志」として認識しているだけ。つまり、現実とは“ダウンロードされた体験”にすぎないという仮説が成り立つ。
仏教的世界観とサーバー的宇宙観
この考え方は、実は2500年前の仏教哲学と深く呼応している。ブッダは「この世はマーヤ(幻影)である」と説き、「自己は存在しない(無我)」とも語った。人間の意識や行動は、五蘊(色・受・想・行・識)という構成要素が一時的に結びついたものであり、固定的な「私」など存在しないという。
仏教における「阿頼耶識(あらいやしき)」は、まさにこの“宇宙的サーバー”に相当する。阿頼耶識は、すべての記憶・業(カルマ)・経験が蓄積された深層意識であり、個人の意識がそれにアクセスして世界を体験しているという。
つまり、個人の脳は「端末」、阿頼耶識は「サーバー」、そして現実世界は「表示された画面」であるという構図になる。
「見る者」としての私たち
もし現実が“サーバー”によって決定されているなら、私たちは本当は何をしているのか? 答えはひとつ、「見ている」だけである。
「自分が決めた」と思うすべては、すでに“書き込まれたプログラム”の再生でしかなく、私たちは“視聴者”に過ぎない。だがその視聴は、無意味ではない。観ること、気づくこと、悟ることにこそ、このシステムの中での“自由”が宿る。
仏教が「観(かん)」という言葉に重きを置き、「念(マインドフルネス)」を修行の核心とした理由は、まさにここにある。見る者としての自分に目覚めることこそ、現実の“サーバー構造”を越えていく道なのだ。
この“サーバー”とは何か?
では、このサーバーとは一体何なのか? それは神か? 宇宙の意識か? それともただの物理的計算装置なのか?
この問いに明確な答えはないが、多くの哲学や宗教、そして情報理論がそれぞれの方法でこの“中心”にアプローチしてきた。仏教では如来蔵思想や法身(ほっしん)という形で、ヒンドゥーではブラフマン、西洋哲学ではプラトンのイデア、現代では「フィールド」や「ゼロポイント・エネルギー」など、さまざまな名で呼ばれてきた。
つまり、“サーバー”とは、意識以前の情報そのものであり、全ての現象の起源となる情報源と捉えることができる。
決定されている世界での「本当の自由」
全てがすでにサーバーで決定されている世界において、私たちに自由はあるのだろうか? ブッダの答えはYESだ。だがその自由とは、「選択する自由」ではなく、「見つめ方の自由」である。
自分の行動を“自分がしている”と思うのではなく、「すでに起きていること」として見つめるとき、私たちは苦しみから自由になる。苦しみは「私」が「選んだ」と錯覚することで生じるからだ。
この構造に気づいたとき、私たちはこの“映像世界”を超えて、サーバーそのもの=根源の静けさとつながることができる。そしてそのとき、人生は“操作”するものではなく、“観照”するものへと変わる。
結語:世界の構造に目覚めるということ
この世のあらゆる現象──あなたがスマートフォンに触れる瞬間でさえ、それはあなたが決めたことではない。それは、この世界を支える“見えざるサーバー”が送り出した情報の再生に過ぎない。
しかし、それに気づいたあなたはもう、ただのプレイヤーではない。“誰が”プレイしているのか、その構造を理解し始めた“観る者”なのだ。ブッダが「この世は投影である」と言ったその言葉は、現代においてもなお、鋭く真実を突いている。
この世界が投影であるならば、そこに自由はない。だが、投影を投影として“観る”その意識に、真の自由と目覚めがある。そしてその目覚めこそが、この「サーバー的世界」における私たちの真の役割である。
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