見えている世界だけがその瞬間に存在している

日記
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自分が見ている範囲以外は存在していないのか?

私たちが生きているこの現実世界。それは本当に「現実」と呼べるものなのだろうか。コンピューター技術の進化に伴い、「この世界は超高度な文明によって構築されたシミュレーションではないか」という仮説――いわゆる「シミュレーション仮説」が、哲学者や科学者たちの間で議論されてきた。仮にこの仮説が真実だったとしたら、我々が「現実」と信じているものの根拠は根底から揺らぐ。さらに、「自分の目で見ている範囲以外は、その瞬間存在していないのではないか?」という疑問も浮かび上がってくる。これは量子力学の不確定性や観測問題とも関連してくるテーマであり、単なる空想を超えて、現代科学とも接続する深い問いである。

まず、「シミュレーション仮説」とは何かを簡単に整理してみよう。この仮説は、2003年にオックスフォード大学の哲学者ニック・ボストロムによって提唱されたもので、以下の三つの命題のうち少なくとも一つが真であるとされている。

  1. 高度な文明は、技術的にシミュレーションを作る能力を持ったとしても、それを実行しない。
  2. 技術的に高度な文明は、絶滅するなどしてその段階に到達しない。
  3. 我々はすでにシミュレーションの中に生きている。

この三つのうち最も刺激的なのが三番目の命題であり、多くの議論を呼んでいる。「もし未来の文明が、現実と見分けがつかないほど精巧な仮想世界を作ることができるならば、そしてそれを大量に作る可能性が高いとすれば、我々がその中の一つに生きている確率は非常に高いのではないか?」というのがこの論の核心である。

この前提に立った時、「自分が見ている世界だけがその瞬間に『レンダリング』されており、それ以外は存在していないのではないか?」という問いが自然に浮かび上がってくる。これは、コンピューターゲームの仕組みに似ている。たとえば、オープンワールドのゲームでは、プレイヤーの視界や行動範囲に応じて、必要な部分だけがリアルタイムで描写され、それ以外はメモリの節約のために非アクティブな状態、あるいは存在すらしていないこともある。これを「オンデマンド・レンダリング」と呼ぶが、もしこの世界がシミュレーションであるなら、まさにそれと同様の処理がなされている可能性もある。

この考えは、哲学的には「唯我論」や「認識論的懐疑主義」とも接続する。「自分以外の存在が本当に存在するのか?」「私の知覚を通じてしか世界は存在しないのではないか?」という問いは、古代からデカルトやバークリー、ヒュームといった哲学者たちが取り組んできた問題だ。ジョージ・バークリーは「存在するとは知覚されることである(Esse est percipi)」と述べ、物体の存在はそれを知覚する意識によって初めて確立されると主張した。

さらに、現代物理学の一分野である量子力学においても、観測が対象の状態に影響を与えるという「観測問題」がある。量子力学では、粒子は観測されるまでは複数の状態が重ね合わせられた「波動関数」として存在しており、観測した瞬間に一つの状態に「収束」する。これを「波動関数の収縮」と呼び、いわゆる「シュレディンガーの猫」などの思考実験がそれを象徴している。つまり、観測者がいなければ物質の位置や状態すら確定しないという、直感に反する世界が広がっているのである。

この量子的な振る舞いを、「シミュレーション仮説」と結びつける議論もある。観測者が目を向けた時にのみ世界が「現実化」するというのは、まさに効率的なシミュレーション・エンジンの挙動である。全宇宙を常時フル稼働でレンダリングするのではなく、必要な時に必要な範囲だけを現実化する。つまり、プレイヤーである「自分」が見ている範囲だけがリアルタイムで存在し、それ以外は未定義の状態にある、という仮定は決して荒唐無稽なものではない。

とはいえ、この仮説には反論も多い。第一に、我々が「見ていない」範囲においても自然現象が連続的に起こっているように観測されているという点がある。たとえば、監視カメラに映る出来事や、天体望遠鏡で観測される遠方の星々は、我々が直接見ていなくとも物理法則に従って整合性のある挙動をしている。また、他者と情報を共有することで、主観的な視界を超えた客観的な現実がある程度存在することが示される。

さらに、シミュレーション仮説は「証明不可能性」の問題を抱えている。シミュレーション内部の存在である我々が、その枠組みを超えてシステムの本質にアクセスすることは本質的に不可能である可能性が高い。たとえ何らかの「バグ」や「ノイズ」を発見したとしても、それをどう解釈するかは我々の認識に依存しており、それ自体がシミュレーションの設計の一部であるかもしれないからだ。

だが、仮にこの世界がシミュレーションであり、自分の目で見ていない範囲がその瞬間には存在しないとしたら、我々の生き方や倫理はどう変わるだろうか。自分が中心であり、他者は単なるプログラムである可能性すらある中で、「他者への共感」や「善行」に意味があるのかという疑問も生まれる。だが同時に、仮想であろうと現実であろうと、我々の「経験」は我々自身にとっては本物である。痛みも喜びも、記憶も感情も、主観的には現実そのものだ。それゆえ、我々がどのような「設定」にあろうとも、倫理や意味は主観の内側から生まれるものなのかもしれない。

最後に、この問いに対する決定的な答えは今のところ存在しない。だが、「見えている世界だけがその瞬間に存在している」という可能性を想像することで、我々は逆説的に、日々の体験の貴重さや、人と人との出会いの奇跡に改めて気づくことができる。世界がシミュレーションであろうと現実であろうと、「今、ここで、目の前にあるものをどう生きるか」が我々の根源的な課題であり続けるのだ。

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