スマホで勉強する時代なのか?

近年、急速に進化を遂げているAI(人工知能)は、私たち大人の生活だけでなく、子どもたちの学びや遊び、そして成長の在り方にも大きな影響を及ぼし始めている。とりわけ注目すべきは、小学生という幼い年齢層においてさえ、スマートフォンを持ち、インターネットに接続し、AIを用いたサービスを使いこなす子どもたちが増えてきているという現状である。
ある調査によると、現在では小学生の約半数がスマートフォンを所有しているという。これはかつての「子ども=ランドセルと図鑑」というイメージを大きく覆すものであり、今や「子ども=スマホとAI」と言っても過言ではない時代が到来していることを意味する。彼らは、YouTubeで動画を観たり、ゲームで遊んだりするだけではない。ときにはAIチャットに話しかけ、「読書感想文を考えて」「夏休みの自由研究のアイデアを教えて」などと問いかけ、数秒後には整った文章を得て、それを提出してしまうという使い方さえしているのだ。
一見すると、それは非常に便利で、効率的なように見える。事実、AIに「小学生らしい文体で」と指示を加えれば、まるで子どもが自分で考えたような自然な感想文が出力される。もはや、それがAIによって書かれたかどうかを見分けるのは困難なレベルにまで到達している。学校の先生でさえ、違和感を覚えずに評価してしまうかもしれない。
このような状況を「けしからん」「ズルをしている」と非難する声もあるだろう。たしかに、AIに頼りきった学習は、子どもの考える力や表現力を奪いかねないという懸念もある。しかし、一方で見落としてはならないのは、その利便性の高さや、サポートツールとしての有用性である。
たとえば、算数の問題が分からず困っている子どもがいたとする。親が仕事で忙しく、家庭教師を雇う余裕もない中、AIに質問すれば、子どもの理解度に合わせて丁寧に説明してくれる。「なぜこうなるのか」「どこでつまずいているのか」を分析し、必要であれば別の例題を提示してくれる。従来の教科書や先生の説明ではなかなか腑に落ちなかった内容も、AIのアプローチではスッと理解できることも少なくない。
つまり、AIは「代わりに考えてくれる存在」であると同時に、「一緒に学んでくれる伴走者」でもあるのだ。保護者がそばにいなくても、子どもは学びを止めることなく、自分のペースで前に進める。これは、まさに教育の格差を埋める希望の光とも言える。
しかし、問題はそこに留まらない。
AIが優秀であればあるほど、人間の思考は委ねられていく。「自分で考えなくても、AIがやってくれる」と思ってしまうようになると、本来必要だった「試行錯誤」や「失敗から学ぶ力」が育たなくなってしまう危険性がある。特に子どもにとって、この「遠回りの学び」こそが創造性の源であり、深い知性を育む肥料なのだ。
AIは、既存の知識やデータをもとに最適な答えを提示する。しかし、天才とは、最適な答えを出す者ではなく、「まだ誰も思いついていない問いを立てる者」である。過去に例のない視点、常識を覆す発想、そして時に突拍子もない空想力――こうしたものは、AIの得意領域ではない。
もし、子どもたちが小さい頃から「考える」というプロセスをAIに委ね続ける生活を送れば、将来、優れた解答者(秀才)にはなれても、誰もが驚くような斬新なアイデアを生み出す発明家(天才)にはなりにくくなるのではないか。これは決して杞憂ではない。
また、もうひとつ重要なのは、AIは「無色透明」ではないという点である。たとえば、感想文をAIに書かせれば、無難で整った文になることが多いが、それはあくまで一般的な傾向を模倣したものである。つまり、個性が出にくいのだ。「おもしろくなかったけど、○○のシーンだけは心に残った」といった、子どもらしい素直な感情や、「なんで主人公があんなことをしたのか分からない」という疑問のような、人間らしい揺らぎが薄れていく。
子ども時代にしか持てない、独特の感性や視点は、大人になってからではなかなか取り戻せない。そして、その唯一無二の体験や思考の軌跡が、のちの人生における創造や探求の原点となる。AIが与えてくれる「整った答え」は、時としてその芽を摘んでしまう恐れがある。
とはいえ、私たちはAIの存在を否定することも、子どもから完全に遠ざけることもできない。むしろ、これからの時代においては、AIをいかに上手に活用し、自分の糧とするかが重要になる。
大切なのは、「AIを使うこと」ではなく、「どう使うか」を子どもたちに教えることだ。感想文をAIに書かせるのではなく、まず自分の意見をメモし、それをAIに見せてアドバイスをもらう。算数の答えを出してもらうのではなく、途中の考え方を教えてもらう。そうした工夫と意識こそが、AIを「依存の対象」ではなく「学びの相棒」へと昇華させる鍵となる。
また、学校や家庭においても、「正解を出すこと」よりも「問いを持つこと」「自分の言葉で語ること」の大切さを教える教育が求められている。AIによって便利になる時代だからこそ、逆説的に「不便さの中で育まれる力」にこそ目を向ける必要があるのだ。
最後に――AIは、子どもの可能性を広げる道具でもあり、刃にもなる。私たち大人がすべきことは、それを恐れることではなく、適切に導くことである。AIによって秀才が増える未来の中で、あえて遠回りをし、誰も見たことのない世界を夢見る天才を育てる。そのためには、今まさに、子どもとAIの距離感について、社会全体で考え直す時なのかもしれない。
コメント