すでに決定された世界を生きる——「自由意志」は幻想なのか

日記
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投影の中を生きる

私たちは日々、自分の意志で行動していると信じている。朝起きる時間を選び、何を食べるかを考え、誰と話すかを決めている——少なくともそう感じている。しかし、もしその「選択」がすでに何秒か前、いや何分、何時間も前に決定されており、私たちの意識はただその結果を後追いして「選んだつもり」になっているだけだとしたら、どうだろうか。

これは単なる思考実験や空想ではない。現代神経科学や量子論、哲学の一部の立場では、すでにこのような可能性が議論されている。「自分の意思で手を動かした」と感じていても、実際にはその運動が始まるよりも前に、脳内ではすでにその行動をとる準備が始まっていることが、様々な実験によって示されている。代表的なものに、1980年代にベンジャミン・リベットが行った「リベットの実験」がある。

リベットの実験では、被験者に「好きなときに手を動かして良い」と指示し、そのときの脳波と筋肉の反応を測定した。すると、被験者が「今だ」と意識的に感じるよりも数百ミリ秒早く、脳内ですでに運動準備電位(readiness potential)と呼ばれる信号が発生していたことがわかった。つまり「意識が決めた」と感じるその瞬間には、すでに脳はその行動を始めていたのだ。

この結果は、意識が行動の「原因」ではなく、「結果」あるいは「後付けの解釈」である可能性を示唆する。私たちは自分が意図的に何かをしていると信じているが、実際には脳が先に動き、意識はそれに対してナレーションを与えているだけかもしれない。これは、映画を見ながら自分が主人公であるかのように錯覚している観客のようなものだ。

では、この世界全体が「すでに決まっている」ものだとしたら、私たちが見ている現実とは何なのか。古くから哲学の分野では、このような考え方が繰り返し議論されてきた。プラトンの「イデア論」では、我々が見ている現象界は真実の「イデア」の影にすぎないとされるし、仏教の「唯識思想」では、外界の現象はすべて心の投影にすぎないとされる。これらの思想は、すでに数千年前から現実の「虚構性」や「操作性」に目を向けていたとも言える。

現代では、シミュレーション仮説という形で、現実の「投影性」が再び注目を集めている。もしこの世界が超高度なコンピューターによってシミュレートされたものであるならば、私たちの思考や感情、行動すらもすでにプログラムとして定められている可能性がある。手を挙げる、涙を流す、恋に落ちる——これらはすべて既定のスクリプトに過ぎないとしたら、自由意志はどこにあるのか。

さらに量子論の一部では、観測される前の世界は「確率の雲」であり、観測によって初めて現実が「確定」するという考え方がある。この立場を極端に解釈すると、私たちが「今見ている世界」そのものが、観測によってリアルタイムに描画される投影のようなものであり、過去や未来すら「存在しない」とも考えられる。つまり、私たちは過去に何があったかを「思い出している」のではなく、今この瞬間に「思い出したように構築された情報」を受け取っているだけかもしれない。

このような視点から見ると、自分が自分の身体を動かし、人生を選び、未来を形作っているという実感そのものが、一種の「錯覚」にすぎない可能性がある。自分が行動の主導権を握っているように感じるのは、実際には「起きたことに対する物語づけ」であり、意識は常に「事後的」に反応しているだけなのだ。

だが、もしそれが真実であったとしても、それによって私たちの人生の価値が損なわれるわけではない。映画の筋書きが決まっていたとしても、観客がそのストーリーに感動し、登場人物に共感し、涙を流すことに意味があるように、たとえ私たちの選択がすでに定められたものであったとしても、私たちがそれに「意味を見出す」ことこそが、人生のリアリティなのかもしれない。

あるいは、すでに決まっている運命の流れの中にあっても、私たちの「選んでいるという感覚」や「迷い」がリアルである限り、それは一種の自由なのではないか。自由意志が幻想であるとしても、その幻想を生きることによって、私たちはこの世界を「私の世界」として体験している。そこにこそ、実在を超えた「主観的な真実」が宿っているのだ。

だからこそ、たとえすべてがすでに決まっていたとしても、私たちは今日もまた、自分の手で何かを選び、未来に向けて歩いていると感じながら、生きていくのだ。

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